「フランチャイズ・ビジネス」の誕生、という括りでアメリカとヨーロッパにおける起源ついてお話してきましたが、日本についてもその原型を探ってみましょう。
[4]日本におけるフランチャイズ・ビジネスの歴史
(1)日本のフランチャイズ・ビジネスの原型
わが国のフランチャイズ・ビジネスの原型として、古くは中世における「座」がこれに当たると考えられています。この観点では、松宮信一と足立政男の優れた研究があります。
<1> 松宮信一の研究
松宮信一は、1970年(昭和45年)11月に発行された「商工金融」誌上で、次のような説明をしています。
わが国でも中世期(鎌倉・室町時代)になると商人の職業の分業が進み、集荷商人、卸売商人、小売使用人などが次第に明確な文化を見せるようになりました。それぞれの商人団は朝廷、幕府、領主、社寺などの権門と特殊な関係を結び、相互に競争を防止し、権門より得た営業特許を活用して、特殊な組織を構成し市場の確保を図りました。 これが中世における座の組織で、権門、領主に一定の現物、金銭を納める代わりに、これらの庇護を受け、一定商品の販売、購買の独占権、交通路、販売区域の独占権を与えられ、両津両(関税)の免除も受けた場合が多い。そして販売上の独占権の侵犯は「協売」「振売」と称して固く禁じられ、侵犯者には厳しい制裁が加えられ、これが江戸時代になると、株仲間という営業独占組合の形態の起源となるのであると説明されています。
<2> 足立政男の研究
足立政男は、その著書「近世京都商人の別家制度」(1959年刊)のなかで、のれん分けや別家について、次のように説明しています。「別家とは近世以降、主として商家において、主家に対して称するものであって、大体次の3種類があります。
第一は、丁稚が多年(普通20年)忠勤を励んだ功労により、別宅を許され、通い奉公をなすものにして、斯かる番頭は終身使用人たるのみならず、子々孫々主家に仕えるものでありました。第二は主家若しくは自己の都合により別宅通勤を許され、別家の待遇を受けるものにして、第三は主家より若干の資本と暖簾とを分けた独立の商人となるのでありました。
第三の場合は、丁稚制度の終局であり、1個の独立企業者の地位に昇ることによって、永年に亘る丁稚生活が真に意味づけられるものです。別家に際して主家より同業者に仲間入りを願い出て、披露するのを常とし、また資本を与え、顧客乃至販売地域の分与をなす例としていました。斯く企業者として独立しても、なお主家に対しては封建的主従関係にあることはもちろんで、1日、15日には主家にご機嫌伺いとして罷り出て、吉凶の際は万事手伝うことを義務づけられていたのです。」と説明されています。
<3> 中世が起源
このように日本における「フランチャイズ」の起源は、ビジネスやシステムにまで至っていませんが、その萌芽は中世に見ることができます。但し、ヨーロッパにおける「ギルド」と同じように、「座」や「株仲間」は、いずれもその目的は同業者の組織化であって、その点ではフランチャイズ・チェーンというよりは、現在の組合あるいはボランタリーチェーンの性格が強い組織でした。独占的な利益を確保していこうとする排他的な側面が特徴的な流通の組織化だったのです。
「別家」の第三に挙げられているのがいわゆる「暖簾分け」であり、優秀な使用人のために設けられた独立制度です。これが現在の「フランチャイズ・システム」にもっとも近いものでしょう。
(2)わが国における最初のフランチャイズ
わが国において、「フランチャイズ」とか、「フランチャイジング」という言葉を正式にビジネスの世界で用いたのは、1956年(昭和31年)に設立された日本初のコカ・コーラのボトラーである東京飲料株式会社(後の東京コカ・コーラボトリング)といわれています。コカ・コーラ自体はすでに大日本帝国の時代に輸入されており、また、敗戦直後には日本国内の各地にボトラーが設置されましたが、それはあくまで進駐軍向けにアメリカ本社が作ったもので、占領軍が日本から朝鮮に出兵し、サンフランシスコ講和条約後に日本国内の進駐軍の撤退がすすんで駐留規模が縮小されると、それにあわせて縮小されました。しかし、昭和30年代になると、戦後の混乱から10年を経て国民生活が安定しその後に訪れる高度成長に向かう直前の時期であり、国民は飢えを凌いできた時期からようやく脱し、少しづつ生活に豊かさを求めることが許されるようになってきた時代でした。街には洋菓子店や喫茶店が立ち並びはじめ、映画や野球が大衆娯楽として広く普及し、ハイキングや山登りが盛んになりました。レジャーやバカンスといった言葉が都会の人々の間で普通に使われ始めたのもこの頃です。
はじめのうちは、当時のコカコーラに対して日本人が抱くイメージは「進駐軍の飲み物」であり、最初は薬臭いといって敬遠されました(アメリカでももともとは薬だったので当然です)。しかし、都会の喫茶店や飲食店を通じたマーケティングが太陽族やロカビリー世代の若者に次第次第に受け入れられ、アメリカ文化や豊かさの象徴として浸透していったのです。1962年には、コカ・コーラは家庭に急速に普及しだしたテレビでコマーシャル放映を開始しました。飲料の自動販売機を日本で初めて設置したのもコカ・コーラです(但し缶ではなくボトルでした)。このようにコカコーラは、日本経済の高度成長とともに、アメリカ人が飲む特殊な飲物から日本の飲物になってゆきました。各地のボトラーと契約して製造や販売を任せるマーケティングの手法そのものは「伝統的なフランチャイズ・ビジネス」として、アメリカではすでに20世紀初めから存在していたものですが、コカ・コーラはフランチャイズ・ビジネスの仕組みを米国内だけでなく海外進出においても適用して世界戦略を進めていたのであり、その方法がそのまま日本においても採用されたのです。しかし、わが国においては、コカ・コーラが普及しても「フランチャイズ」とか「フランチャイジング」という言葉は一般には知られないままでありました。to be continued