本コラムは、「フランチャイズ・ビジネス」の本質を深く理解し、応用していくために、弊研究所が研究してきたフランチャイズの歴史をお伝えするものです。

 

アメリカのフランチャイズ発展史を語る上で外せない、「ケンタッキー・フライド・チキン」について、引き続き、その誕生の経緯を追いかけていきましょう。

 

<「歴史から学ぶ本質論」シリーズの過去記事はこちら

[ケンタッキー・フライド・チキン](4)

(3)KFCのフランチャイズ化
①サンダース・カフェの破局

「サンダース・カフェ」は、もともとは最高に立地条件にめぐまれたレストランでした。交通量の多い国道25号線沿いにお店を構えていたのです。しかも、レストランが建てられていた場所は、そこから別の道路に分かれた分岐点になっていて、国道を走ってくる車からは、あたかも道の真中に店があるかのように見えました。

ところが、1950年代に入ると、国の政策により道路整備が行われました。国道25号線に迂回路が作られてしまったのです。「サンダース・カフェ」の客数は激減してしまいました。さらに、1年も経たないうちに、国道25号線に代わるハイウエイ75号線の計画が発表されました。このハイウエイは、そのコービンの町をバイパスしまうものでした。

 

これまでカーネルは人生で逆境に見舞われるたびにそれを乗り越えてきましたが、この時ばかりは、手の打ちようがありませんでした。そのうえ、「暮らしに困らないくらいは支給されるだろう」と最終的な拠り所にしていた年金が、月に150ドルしか支給されないと判明。人生の厳しさをいやというほど知らされた瞬間でした。

 

②フランチャイズの行商

「こんなことにヘコたれていてはダメだ。俺の発明したフライド・チキンの製法は、必ず広くアメリカ人に分かってもらえる日がくる」と考えました。

 

フライド・チキンの味に絶対の自信を持っていたカーネル。彼は原点に立ち返りました。「どうしたら多くの人々に喜んでもらえるだろうか?」

 

そこで、カーネルが検討したのは、自分でレストランを持たずに、フライド・チキン・ビジネスを行う方法です。「自分のフライド・チキンの作り方を他のレストランに売る」というものでした。

 

カーネルが再出発をしたのが、1955年、65歳のとき。自分が考案した「KFC」のフランチャイズの行商を開始しました。彼は旧知のピート・ハーマンを訪ね、自分のフライド・チキンを食べてもらいました。深く満足したピート・ハーマンは、「カーネルのフライド・チキンは、州の名前【ケンタッキー】を頭につけて、『ケンタッキー・フライド・チキン』と名乗ると良い」と言いきるほど高く評価しました。

カーネルはピート・ハーマンを再び訪ねました。ピート・ハーマンは、フライド・チキン・ビジネスに対する情熱に深く共感しました。そしてついに、チキン1羽につき4セントを支払う条件で、フランチャイズの第1号としてカーネルと契約を結ぶこととしたのです。第1号の実績ができたカーネルは、圧力釜と香辛料を自動車のトランクに積み込み、全米の行脚を更に進めました。

 

カーネルは、旅先のレストランを次々に訪問。閉店後や閑散時に、そのお店の人々にフライド・チキンを試食してもらいました。興味を示していただけた時は、そのお店に2~3日滞在し、お客様の反応を確かめました。手ごたえがあれば、速やかにフランチャイズ契約を結び、レストランのコックの訓練を行っていきました。

 
③厳格な加盟店の資格条件

1店でも多く加盟店を増やしたかったカーネル。しかし、そんな時でも、決して無差別に契約はしないようにしていました。「加盟店主は、その事業にすべてを賭け、最大の努力を傾注しなければ失敗する。フランチャイズであろうと事業は自分のもの。自分で責任をもって最大限の努力をしてはじめて、加盟店は十分な利益を得る事ができる」と考えていました。「一時的な成功や失敗に一喜一憂していてはいけない。仕事に対する継続的な“熱意”と“忍耐力”――それが加盟店主の資格条件だ」

 

幾度も修羅場をくぐり抜けてきたカーネルは、「<教育>だけで一人前の人間を育てることはできない。<実体験>にもとづいた土壌がなによりも重要だ」という信条を持っていました。カーネルは加盟店主の見極めと選定に、一切妥協はしませんでした。

To be continued…